遠州まほろばの会

日航機事故から34年 その1

本日8月12日は御巣鷹山事故が起こった日です。あれから34年・・・・・。

あおの事故そのもの以上に、それに伴う災害派遣で多くの事を体験し、また学びました。ちょっと長くなりますが、概要を記録として残しておきたいと思います。

その1 指揮権の問題

当時私が所属していたのは浜松基地の飛行教育集団司令部(以後”飛集団”)で、時はまさに夏季休暇時期で、教育部隊であることから隷下部隊もまとめて夏季休暇を取得していました。私自身、事故の発生は富士山麓へ家族旅行の帰路に車の中で知りました。
災害派遣については要請者(都道府県知事等)とともに要請を受ける部隊も決められています(これを”指定部隊等の長”と呼びます)。浜松地域では浜松南基地の第1術科学校長(当時)であり、飛行教育集団司令官は直接携わることではなく、家に着いたのが暗くなっていたこともあり、そのまま就寝しました。

翌朝、やはり気になったので早めに出勤しました(6時半ころだったかな・・)。で、ビックリ! まだ誰もいないと思っていたのに、指揮所の方がガヤガヤ騒がしい。「どうなっているんだろう?」と思いつつ、指揮所内の表示を眺めて状況を掌握しようとしている時、上司が目ざとく見つけて「お!Q、何時来たんだ! 〇〇(先輩)、状況を教えてやれ!」と先輩に指示してくれました。
で、時の司令官が群馬県出身で、災害派遣要請に関係なく「(救援部隊を)出せ!」と指示された由。現場と思しき所に最も近い部隊であろう静浜基地の第11飛行教育団に、事故現場も判らぬまま派遣命令を出し、実際に昨夕部隊が出発していました。ラジオ等で現場を予想しつつ彷徨し、峠道で衛星中継車を設置した某TV局に道を空けることを拒否され、しかたなく現場を挟んで陸自等と反対側の川上小学校に宿営地を確保しました。
翌13日、朝4時から現場に向けて出発したが、道路は某TV局にふさがれているため、途中の峠から山に分け入って行くことになった。細かな地図もないため、浜松救難隊のヘリコプターが上空から誘導する形で尾根を3つ超えて現場に到着した。(その途中から私も指揮所活動に加わったわけです。)現場まで7時間かかりました。

現場も大変でしたが、指揮所もてんてこ舞いでした。まず、指定部隊の長でもなく、災害派遣要請も受けないで部隊を動かしたこと。
実際の災害派遣要請は、羽田空港事務所から入間基地の中部警戒管制団司令(以後”中警団司令”、現場近辺を担当する指定部隊等の長)に出されていました。当初、教育集団司令官にも派遣要請を出して貰えないか打診しましたが、空幕の段階で拒否されました(当然!)。それで、中警団司令から飛集団司令官へ支援要請を出して貰えないかと調整を始めました。ところが、中警団司令よりも飛集団司令官の方がずっと格が上であり、通常このような支援要請はあり得ないものです。
いろいろやり取りがありましたが、現場の業務に差し支えてはいけないということで、結局支援要請を出して貰いました(トップ同士の話し合いもあったようです)。幕僚業務としては、事前に12日付の発令番号を全関係部隊でキープしておき、14日に12日付で支援要請を受け、それまで出した災害派遣命令を全部差し替えました。

司令官と言えども、災害派遣等に精通している訳ではなく、無茶な命令を出すこともある。それを如何に法規に違反させず、司令官の意図を達成するか、沢山勉強させて貰いました。
近年、大きな災害の度に、”災害派遣要請がなくても自衛隊は出動すべきだ”と無責任に主張するマスコミ等が多いが、それは「法令違反をお前の責任でやれ!」と言っているのと同じで、そんな無茶な言い分には防衛省などはきちっと反論すべきです。




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